開催報告

第2回は、2014年5月24日(土)に「文明堂カフェ」(日本橋)で開催されました。

201405記念写真
当日、会場付近にて通りがかりのご婦人による撮影

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 81回生から83回生の図書委員にとって、書庫などで興じた「お茶会」や両高祭への参加などは何れも貴重な思い出となりました。その頃から三十年を経た昨年2013年8月に、委員会活動としては初めての卒業生会として、”都立両国高校図書委員会(81~83回生)「お茶会」”を催しました。続く今年は、81回生の卒業三十周年記念と銘打って2014年5月24日に、日本橋の文明堂カフェにて第2回目の「お茶会」を催しました。

 今回は、I.A.司書をお招きする予定でしたが、ご事情によって前日に取りやめとなりました。参加予定の皆さんからは落胆の声が寄せられましたが、どなたも参加を取り止めることなく予定通りに開催の運びとなりました。

  • 81回生 A.M.先輩、I.T.先輩、M.N.先輩 S.Y.先輩

  • 82回生 E.A.先輩

  • 83回生 小山利幸(幹事)

  •  順不同。イニシャルは姓名の順。女性は旧姓表記。以下、同様。

 時期は、前回の反省を踏まえて春とした上で、年度の変わり目や連休時期を避けて5月後半を選択しました。一方、会場は、I.A.司書のご参加を踏まえて東京駅近傍としました。但し、今回の会場は混雑時に席の予約ができないことが問題でした。そのために当日は「お茶会」開始予定時刻の一時間前に 会場へ先乗りして、席を確保することにしました。

 文明堂の店舗の奥にカフェの入口へとつながる待合がありました。そこに予約シートが置かれており、その記入欄の右端には、”テラス席でも可”との選択肢がありました。微妙なニュアンスであることを訝りながらも、席を確保できないのでは元も子もないので丸印を記しました。そうして、待合に用意された椅子に腰掛けて待つばかりとなりました。予約シートの記入状況を確認したり、客に順番を告げたりするために案内担当者が時折姿を見せました。その手にしている予約シートの枚数が減る気配がないことがもどかしい限りでした。

 ついに名を呼ばれて案内された席は、テラス席でした。その光景から、予約シートでテラス席を微妙なニュアンスで示していた理由を納得しました。しかし、「お茶会」の開始予定時刻まで残すところ十分間程でした。待合からテラス席に行くには、レジを横目にしながら店内を通り抜けます。その途中で目にした混み合う店内の様子からすれば、もしもテラス席を不可としていたら間に合わなかったことでしょう。

 幾つかのテーブルを寄せて用意された、六人分の広々とした席に着いたものの、ひとり何もせずに居るだけなのも間抜けでした。そこで、一足先に珈琲でもと思って店員に合図をしたのと同時に、81回生のA.M.先輩がご到着になりました。こちらの合図に気がついて、すぐそこまで来ていた店員は、A.M.先輩の背後で立ち往生する有り様になりました。その姿が申し訳なく、改めて店員に合図をして取り敢えずの注文をしました。この時、セットメニューのコーヒーを先に運ばせたことで会計時にちょっとしたトラブルになりました。

 そのすぐ後にA.M.先輩がメニューから選んだのは、ゴディバのチョコレートを使ったショコララテでした。「アルコールだけれども大丈夫ですか」と店員が確 認したのは、土曜日の午後ではあっても日が高かい時間であったせいでしょうか、それとも、アルコールが入っていることに気が付かない客が過去に居たせいでしょうか。あるいは、かよわい女性であるからと気を回したためでしょうか。

 続いて、ほぼ開始時間通りの到着となったのは、同じく81回生のS.Y.先輩でした。帽子とマスクを着けておいででしたが、昨夏にお会いした時の姿と直ぐに重なりました。視力に変調を感じているとのことから、眼鏡を外し、テーブル上に伏めるようにしてメニューをご覧になっていた姿が印象的でした。事情を知らずに、その様子を目の当たりにした時は、急にお加減が悪くなったのではないかと心配したほどでした。その日の朝までは連日、徹夜でのお仕事であったとのことでもあり、それでなくとも細かな文字を凝視する業種でもあるので、尚更にお疲れ だったのでしょう。

 そのS.Y.先輩が左手につけておられた、重厚で存在感のある腕時計の文字盤を話題にしていた頃に、82回生のE.A先輩らしき人影が自動扉のガラス越しに視界へ入りました。しかし、テラス席との間を隔てる自動扉の前で左折してソファ席のある区画へ。そこから再び自動扉の前に戻ると、テラス席とは反対方向の、カフェ入口へとお戻りになりました。それを見て後を追うべく席を立ち、待合手前で何とか声を掛けることができました。昨年の第一回「お茶会」でE.A.先輩にお会いしてなかったら気付くことができず、また、E.A.先輩も諦めて帰宅なさったかもしれません。前回に引き続き、携帯端末を一切所有していない身で幹事を務めることのリスクが顕になった瞬間でした。

 どうにか難を逃れたと胸を投げ下ろしながらE.A.先輩をテーブルにご案内し、A.M.先輩と向かい合う席をお勧めしました。それからさして間をおかずに、81回生のI.T.先輩が唐突にご登場になりました。昨年にお会いしなかったので、現在のお姿を存じなかったという事情はありますが、誰かがテーブルに近付いているとすら感じていなかったので少々面食らいました。もっとも、I.T先輩は、同じ81回生の方々とは時折お会いになる機会があるとのことでした。A.M.先輩とは5年程前にも電車の中で偶然に乗り合わせたそうです。その頃は、23kg近く体重が増えていたそうですが、それまでにも何度となく会う機会があったA.M.先輩は見違えることがなかったとのことでした。

(そうした体重の増減に関連する話題もあれこれありましたが、このご時世なので省略します。)

 I.Y.先輩の話題が一段落した頃、I.Y.先輩と小生はパンケーキセット(”焼き立て三笠パンケーキ”)を注文しました。それに添えられていたアイスクリームが溶ける程、ゆっくりと時間を掛けてパンケーキを食べ終わった頃に、父兄会のために約一時間の遅れを予告なさっていたM.N.先輩がご到着になりました。テーブルに空の皿が並んでいたこともあって、着席なさると間もなくカステラセット(”特選カステラあわせ”)を注文なさいました。

 そして、男性の先輩がお三方で申し合わせでもなさっていたかのように視力の不調を話題になさいました。高校卒業から三十年が経過したことを、そうしたことでも実感しました。

 人数が揃ったこともあって、当時の「お茶会」らしい場の雰囲気が増し、また、M.N.先輩が直前まで父兄会にご参加であったことから、話題は高校生活の記憶へと比重を移していきました。

 三十年前の在学当時、両国高校には定時制が併設されていました。そのこともあって、全日制の生徒は定時で本校舎から退出することが必須でした。これに対し、無 にもプールを上に載せて別棟を構成していた図書館は、その場での言葉を借りれば「治外法権」となっていました。その環境は、現在の校舎が完成して、図書館が以前とは違って本校舎内から別棟に移動したことで得られたものでした。それがちょうど、81回生から83回生が図書館に揃った時期と重なります。(83回生は旧校舎の図書室を使うことはありませんでした。)

 もっとも、別棟であることだけが「治外法権」を謳歌した要因ではなかったようでした。84回生以降は「お茶会」も次第に下火になったようです。そうしたことを考え合わせると、三十年を経て「お茶会」を開催できることも、当時の思い出深い日々も81回生から83回生ならではだったということになるのでしょう。もちろん、そこにはI.A.司書の存在が欠かせないものでした。

 現校舎の利用が始まった直後は、上履きではなくてスリッパを校舎内で用いていたそうです。しかし、或る時の避難訓練で危険であるとの指 摘を受けたことで 変更になったらしいのです。

(個人的には在学中、教室から図書館へと降りて行く際に、廊下を走り、階段はフロアから踊り場、踊り場からフロアへと一飛びにすることは日常茶飯事でした。スリッパであれば到底無理な芸当でしたから、その意味では、上履きにすることで寧ろ危険を招いていた例かもしれません。)

 都内あるいは六学区内での、学力の東西格差も俎上に乗りました。また、1982年に学校群制度が廃止になったことで、入学してくる生徒に変化があったと81回生の先輩方は感じておられたようです。その一方では、81回生の中には豪気な方もおられたようでしたから、いい子揃いの83回生やそれ以降よりも魅力的な人物は多かったのではないでしょうか。

 学力と言えば、大学進学が高校では大きな関心となりますが、これに関して現在では廃れたと前置きしつつ、”妙なヒエラルキー”があったことが語られました。卒業式の総代は、東京大学の理科一類に合格した生徒から選ぶことになっていたというのが、それです。

 高三の進路指導で理科一類を担任から勧めれられた理由について釈然としない思いを三十年間放置していましたが、思いがけず氷解しました。

 そうして時を過ごし、17時迄の予定であった一次会に区切りをつけたのは18時頃でした。15時の開始から数えて三時間。参加者全員が揃ってから二時間でした。会場の閉店時刻を受けて三時間で切り上げた前回と同様に、二時間や三時間で話のネタは尽きません。

 会場を出て少し歩いたところで集合写真を撮影した後、御一方を三越駅前でお見送りしました。そして、残る五名で二次会へと繰り出すことになりました。その時点で二次会の会場は決まっていませんでしたが、何気ない一言によって、A.M.先輩のご実家にお邪魔することになりました。

 地下鉄で僅かに二駅でした。最寄り駅に到着した時点でA.M.先輩はご実家に連絡なさいましたが、それから十分間そこそこで到着しました。18時半から 19時の間であったと思います。そのように急な訪問にも関わらず、その日の朝に市場に入荷したばかりの大きな岩牡蠣やわざわざ出前を注文して頂いた握り寿司、日本酒「浦霞」、ワインなどで手厚く歓待して頂きました。

 最近はドジョウ鍋が高騰して、との下町らしい話題をA.M.先輩の父君がおっしゃったあたりから場が盛り上がり始めました。その流れから、千葉(おそらく、利根川下流)で召し上がったウナギの肝吸いを賞賛なさったのは、S.Y.先輩であったでしょうか。そして、ウナギならば静岡。三島あたりまでは各駅停車で出掛けれられるけれど、そこから先は接続が悪いので新幹線を使うしかないとか行った形で話が広がりました。

 また、A.M.先輩の母君が両国高校の教員と奇異な縁を持っておいであったことや、大川周辺でのできごとなどを拝聴しながら過ごしました。

 以前は、おでんパーティなどでA.M.先輩のご自宅に集うことがあったそうです。また、今回の参加者である81回生の先輩方は、高校卒業後に訪問なさっていたとのことでした。訪問理由はどなたも定かには思い出せないそうです(東宝特撮映画全史を図書館の蔵書に加えさせたA.M.先輩らしく、ウルトラセブンのビデオ鑑賞会だとか・・・)が、その理由を察するに足りる、心地良いひと時でした。この場を借りて、重ねてお礼申し上げます。

 A.M.先輩のご自宅をお暇したのは、20時半を過ぎた頃でした。少なくとも約二時間を過ごしたことになります。それからは徒歩で連れ立ち、森下駅への入り口で御二方と分かれました。残る御一方とは、菊川駅近くまで共にご一緒に歩いてお別れし、そこで「お茶会」は散会となりました。

 その後、個人的な事由で猿江公園へと更に歩いて行きました。照明が疎らで、まるで見通しが効かないことで危うさを感じました。それでも、ジョギングに 勤しむ人々を数多く見かけることができました。また、自転車で巡回する警察官の姿も目にすることができました。

そこから僅かに西へと引き戻して、住吉、毛利、そして江東橋へと逍遥しました。錦糸町駅前では、喫茶軽食店「チャンプ」が営業を続けていることを確認しました。当時の「お茶会」で訪れたこともあるので、今後の会場候補として気になっている店舗です。それでも、すぐ近くまで再開発が迫っていることや、店舗入り口から受ける印象が当時とは異なっているようでもあり、喫茶「ピエール」のように機会はないかもと予感しつつ、錦糸町駅の改札へと向かいました。

※ 次回は、2015年に、82回生卒業30周年記念として開催予定です。

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